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コラム1:心霊スポット特集用コメントより



■2003年の夏に、徳島県の地元情報誌「あわわ」宛に書かせていただいたコラムを、月日を経た2004年4月にご紹介させていただきます。
なお、文章は私が書いた原文をそのまま掲載しております。
したがいまして、実際に掲載された文章とは若干の違いがありますことを予めご了承ください。




あわわ2003年8月号 心霊スポット特集用コメント

・心霊スポットのHPをつくるきっかけ、HPの簡単な紹介


まず最初に個人的にサイトを作りたいと思い立ち、その内容を考えたところ、幼少より興味を抱いていた「心霊」を題材とし、また様々な体験談を形にしようと思ったのが切っ掛けとなり、「路地裏」という名前で2000年6月30日に立ち上げる事となりました。その内容は、幼き頃より遭遇してきた「恐怖体験談」をはじめ、蓄積してきた「心霊スポット」の紹介、そして自らその心霊スポットに訪れ紹介する「心霊スポット探索レポート」、心霊スポットに訪れた際に偶然撮影されたものや、私が幼き頃より所有していた心霊写真を紹介する「画像の部屋:心霊写真」となっています。なお、各コンテンツにおいて、お客様からの投稿も常時受け付けており、随時ご紹介させていただいております。是非一度ご来場していただきたく思います。


・一般的な霊の種類


大まかに分けると、「善霊」、「悪霊」と分類される。
「善霊」は主に「背後霊」と呼ばれ、精神面に影響を及ぼす「主護霊」、そして物質面に影響を及ぼす「指導霊」に分類される。なお、前者は個人の生涯を見守り、その個人の人生を円満に過ごすための、言わば“生存するための手助け”を行い、後者は個人の趣味や職業など、生きていく上での“するべきこと”を手助けすると解釈すると分かりやすいであろう。

「悪霊」とは「因縁霊」であり、この因縁霊が、多くの心霊番組や心霊サイト等で紹介されているものだと思われる。多くは現世に未練を持ち、また恨みなどを抱き、成仏できぬまま現世を彷徨い、時に現世の人間に霊障を与える場合もある厄介な霊といえる。因縁霊を大雑把に分類すると、「地縛霊」と「浮遊霊」に分かれ、共に文字通りの特徴を持つ。

「地縛霊」は、その土地に縛られながら現世に留まる霊なのだが、例えば自殺や交通事故などで、この世に未練を残し亡くなられた方が地縛霊となるケースが殆どである。なお、「心霊スポット」と呼ばれる場所に存在する霊は、上記の考え方から言えば、その殆どが地縛霊と言える。

「浮遊霊」は、人間界の空間を彷徨いつつ現世に留まる霊である。死んだ事を自覚できずにいる場合や、現世に未練を持ちながら亡くなられていたり、また現世の人間を恨みながら死んでいった場合などに、この浮遊霊になるケースが多い。なお、因縁めいた土地でもないにもかかわらず、突然「心霊写真」が撮影されたり、霊体を目撃してしまった場合は、この浮遊霊にあたるケースが多いと思われる。


・心霊スポットをまわっていて一番怖かったエピソード


「心霊スポットを巡る」と言う事は、即ち「地縛霊の存在する土地に出向く」と言う事になる。
それは大小あれど、現世に未練を抱きながらこの世を去ってしまった故人の悲しみ、悔しさの念に包まれた空間に自ら出向く事であり、その行動自体に今更ながら怖さを感じたりもする。

そして実際に恐怖体験に遭遇する場合も少なくなく、そんなケースに遭遇した時は、そのどれもが非常に恐怖を感じてしまうし、そのなかで“一番”を選ぶのは非常に難しい事である。
しかし肉体的・身体的に痛みなどを覚えた場合は、さすがに“生命の危機”すら頭を過ぎるものであり、そう考えると、そんなケースが一番怖かったエピソードとなると思われる。

そのケースで振り返ると、私が出向いた心霊スポットでの一番怖かったエピソードとなるのは、神奈川県某所に存在し“自殺の名所”として、TV番組や心霊系サイトなどで紹介される事の多い心霊スポット「虹の大橋」での体験が一番と言える。

以下にその時の出来事を記載しておこう。



サイトの取材で出向いた「虹の大橋」なのだが、正直な話、個人的に幾度も訪れた場所であり、特別な恐怖心を抱く事も無く、比較的平常心で進めていた取材であったのだが、橋の後半に差し掛かったときに、突如強烈な“腹痛”に襲われ、思わず


「う…ううっ…」


と、声を上げてしまい、たまらずその場に立ち止まってしまう。そして次に背中を非常に強い力で


「グイッ、グイッ」


と押される感覚に襲われ、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。


「この場に留まっていたら危険だ」


特に根拠なんて無いのだが、そんな考えが浮かび、腹痛を堪えながらその場を小走りに去り虹の大橋を渡りきった。そして堪らず自分の後方を確認したのだが、人の気配など全く無く、真っ直ぐに伸びた橋の姿が、設置された外灯に照らされ暗闇に浮かんでいた。

改めて恐怖心に駆られたのだが、“取材”が目的であるため撮影を続けねばならず、各所をデジカメに収めて現地を足早に去ることとなった。

帰宅後、デジカメに収めた写真をチェックするのが取材後の習慣であり、この時も自分のPCで100枚程に及ぶ写真を一枚一枚チェックしていた。その中のちょうど半分に差し掛かった頃の写真を見たとき、何か背筋に冷たいものを感じた気がした。その写真は、橋の上より下部の宮ヶ瀬湖を、斜め方向に撮影したものであり、デジカメの原版では一見すると単に暗闇が収められたものでしかない。しかし目を凝らしてみると、その暗闇の中に


青白い物体


が写り込んでいるような気がする。嫌な気もしたのだが、その原版を専用ソフトで明るさの調整をしてみた。すると明らかに青白い物体が、その姿を見せ始める。その姿は、見方によっては“うつむき加減の人の姿”に見えてくる程度であり、鮮明な心霊写真とはさすがに言えない。

しかしその物体が写り込んだ箇所の、ちょうど真上辺りで、先に書いた“腹痛”や“背中を強く押される感覚”に襲われた事を思うと、撮影された“青白い物体”が、とても普通の物とは思えてこない。腹痛はともかくとして、橋の上で背中を押されるということは、状況によっては非常に危険といえることだし…。


その後に、いわゆる“霊障”のようなことも無く、気の利いた怪談話のように一般に受け入れられるようなエピソードが待ち受けていた訳でもない。しかし霊的な要素と思わしきものが絡み、なおかつ“腹痛”と“背中を押される”という出来事、そしてデジカメに収められた“奇妙な写真”、これらを総合してみると、2年以上経過した今になり思い起こし、改めて身体に影響を及ぼす危険なエピソードであったと思えてしかたがない。


・スポット巡りでの心構え


「路地裏」において、心霊スポット巡りを推奨している訳ではなく、なおかつ「これが一番」という立派な考えも私には持ち得てはおらず、そういった意味合いも含め、特に心構えを薦める事は行なってはいない。その事を踏まえた上で、以下に書く事を「一個人の考え」程度に捉えていただければと思う。

「心霊スポット」とは、大まかに言えば「人が亡くなられた場所」であり、その亡くなられた内容も、無残であったり悲しみに包まれたものであったりする。

そんな場所に自ら足を運ぶのだから、例えば面白半分や怖いもの見たさで訪れれば、その場に住む霊としては決して良い気分にはならないであろう。

私は、サイト運営の関係上ではあるのだが、心霊スポットに訪れる前に、現地での情報を事前に調べ、そして出向くケースが多い。その下調べで得るものの殆どが、“悲しい歴史”である。それは事件や事故である場合や、戦争や戦国時代での戦において、大地を血に染めた土地であったりする。そんな悲惨な死、非業の死を遂げた土地に訪れるのだから、それなりの心構えは必要不可欠であり、毅然とした態度や、場合によっては慈しみの心を持ちつつ出向くのが、出向く上での個人的な心構えとなる。

一般的には「不必要な慈しみの心はかえって逆効果」と聞かれたりもする。そして実際に私も若かりし頃は、心霊スポットに訪れた際には必ず「ここに存在する霊と私は全く関わりが無い」と、言わば“隔たり”のようなものを心に作りながら現地に訪れていた。

しかし路地裏を立ち上げた辺りより、現地の下調べを行った上で訪れると、毅然とした態度を心掛けていても、どうしても切なさみたいなものが込み上げてきたりする。最初は「こんな心構えでは危険かな」などと思っていたのだが、とある時に

「果たして故人を慈しむ気持ちを抱く事は悪いことなのか?」

といった疑問を抱いたとき、決して悪い考え方ではないことに気づいた。ならばその考え方を変えることなく、そのまま現地に持ち込んで行こうと思い、現在では悲しく感じたら素直に悲しみ、慈しみ、そして成仏していただけるよう願う気持ちで現地入りしている。

しかしながら、この心構えは先にも書いたとおり決して万人に受け入れられるものではない。「心霊サイト管理者としての一個人の考え方」として捉えていただければ幸いである。


・心霊スポット巡りでの危険性とその対処法


最近の世の中では、心霊スポットに訪れた際の危険性といえば「現世に生きる人間」に気をつけねばならない…という事が挙げられたりもする。時にTVのニュースなどで報道され、「取材に行きづらい世の中になったなぁ」と痛感する部分が少なからずある。

しかしここでは、そういった部分ではなく、あくまでも霊的な部分での危険性に着目して書いていこうと思う。

霊的な部分において、筆頭に挙げられるのが、俗に言う「憑依」や「霊障」と言える。一般的に、様々な霊現象が噂され、それが次第に人に広まり有名になったのが「心霊スポット」なのだから、現地に出向いた際には、有名となった根源である霊現象が起きる可能性は当然出てくる。そして時に霊が身体へ入り込み“憑依”され、身体的や身の回りにおいて支障を来たす“霊障”も、場合によっては有り得ることである。

対処法としては、「さわらぬ神に祟りなし」ではないが、根源との接触を絶つ事が一番であり、即ち「心霊スポットに行かない」ことが、霊障から身を守る最大の対処法となる。しかしこれでは「心霊スポット巡りにおける危険性の対処法」にはならず、そこで「どうしたら霊から身を守れるのか」という言わば“バイブル”的な物が求められてくる。しかし現在の世の中で、「こうすれば必ず霊から身を守れる」といった強力な手法が確立されていないのが実情でもある。

例えばAという人間が「こうしたら霊から身を守れた」という実例があったとして、それを別のBという人間が同じ行動を執ったとしても、それがBに確実に当てはまるかといえば「?」である。

それは簡単にいえば「個人差」となるのだが、例えば数学のように求める答えに絶対的な正解があるならば、一様にその答えを求める手法を学ぶことが出来るだろう。しかし読書感想文などは、個人の感性により答えも様々になるであろうし、それに絶対的な一つの答えを求めることは、感性を持つ人間にとっては非常に難しいことであろう。

そんな部分が、霊に対する捉え方と非常によく似ている。霊に対する考え方も確立されていない世の中では千差万別…とは言い過ぎだが、各個人で微妙に違うものだと思われる。

そういった微妙な部分に確実な答えを求めても、万人に受け入れられる正解を導き出すのは、正直なところ非常に難しく、これから先の未来においても、その答えを確立するのは非常に困難であると思えてならない。

結局のところ、「参考程度」という形でしか書けないのが現状であり、私自身、非常にまどろっこしく感じるのだが、私の考えを元に考えを下に、こんな状況を仮にシュミレートしてみた。

もし、Aという人間が霊に対し興味を持ち、とある場所の心霊スポットに出没する霊を詳しく調べ、その心霊スポットに出向いたとする。

方やBという人間は、霊というものを全く信じず、「霊なんて絶対に存在しない」という考えの下に、Aと同じ心霊スポットに半ば冷やかし半分で向かったとしよう。

そしてお互いに同様の霊を目撃した時に、思い感じるものが違ってくると思われる。

恐らくAは、恐怖心に駆られながらも「あの時にあんな悲しい出来事で亡くなったんだ」という事実を思い出し、その霊に対し成仏して欲しいと思うであろう。しかしBは、現れた現実を目の前にし、ただただうろたえるばかりかもしれないし、場合によってはその事実さえも「嘘っぱち」と解釈するかもしれない。

そこで、出没した霊は両者の考えを感じたときに、果たしてどう解釈するのであろうか。これは霊自身になってみないと分からないのだが、もし私が霊であったと仮定すれば、Aが抱いたその気持ちの優しさに有り難味を感じるであろう。

方やBに対しては、正直なところ、あまり良い気分にはならず、その考え方次第では「おいおい」といった複雑な気分にさせられるかもしれない。ましてや小馬鹿にされた際には、より複雑な心境になってしまうのが、感情を持つ者としては、ごく自然な感情ではないであろうか。

そういった部分が、こと「心霊スポット」に訪れた際における憑依や霊障の切っ掛けとなるのだと、個人的には思っている。もちろんこの考えが全てではないのだが、相手も元々は現世で人生を過ごしていた感情を持つ“元人間”である。その“元人間”に対し、粗相の無い行動を心掛け、欲を言えば慈しみの心を持ちつつ現地に訪れることが、憑依や霊障から身を守る術であると個人的に思っている。


・まとめ(締め的言葉)

「心霊スポット巡り」とは、日本の文化の一つに思えてくる。
夏の寝苦しい夜に涼しさを求め、全国に点在する心霊スポットに訪れる行動や、人が集まり夜な夜な怪談話を語る行為も、私が生まれる遥か以前より行なわれていたことだと思う。

怪談話としては、有名な「お岩さん」を筆頭に、皿屋敷で有名な「お菊」などが古来より語り継がれ、同じく古来より有名な怪談話の主人公である「累(かさね)」と、その舞台となった「累ヶ淵」などは、時を経た現在でも、心霊スポットとして呼ばれていたりする。

この、古来より受け継がれてきた文化は非常に大切なものだと思う。一風変わった人間のコミュニケーションとも言え、楽しいだけでは物足りない若者にとっては、非常に刺激的なイベントと思われる。職場の若者に「心霊スポットって好き?」と問うと、殆どが「好きです」とか「怖い話は大好き」といった答えが返ってくるし、私も若かりし頃は、単に怖さを求め友人と怪談話に華を咲かせたり、自宅から程近い心霊スポットに足を運ばせたりもした。言うならば「怖いもの見たさ」と言う心理が働いたのであろう、生来“臆病者”であるこの私でさえ、この一風変わった夏のイベントを楽しんでいた。

この一風変わった趣味が講じ、青春時代を経過した現在には「路地裏」という心霊を扱ったサイトを製作するようになった。そして3年以上この「路地裏」を運営し続けているのだが、サイト運営とは面白いもので、一つの内容を、どこまで追求するかが“肝”となってくる。

もちろん個人運営という非力な体制なので、情報収集にも限界はあるのだが、それでも現地での噂や、どういった事件や事故が過去に起きたのかを、予め調べた上で現地に訪れたりする。この行動は、せいぜい「この心霊スポットでは、こんな霊が出てくる」程度の知識でしか訪れず、ただ単にコミュニケーションとして楽しんでいた時代には有り得ない行動であった。そしてこの行動を執り始め、そして知ったこと…それは

「過去に人が亡くなった場所をコミュニケーションの場として使っている」

であった。自殺・他殺・事故・災害・戦争・病死…そのどれを取っても“人の死”が確実に関わっており、そのどれを取っても、この世に未練や悔しさを残しながら死んでいった故人の、悲しみに満ちた場所であることを、事前に調べるうちに痛感することとなった。そうなってくると、現地を訪れた時の心境も不思議なもので微妙に変わってくるから面白い。今までは「怖い怖い」だけでしかなかった場所も、妙に悲しい景色に見えてくるのである。そして次に抱く気持ちは、

「どうか安らかに眠って下さい」

であった。素直にそんな気持ちを抱かずにはいられなかった。そして一般に聞かれる「軽はずみで心霊スポットに行くな」という言葉の真の意味を、理解したような気がした…。

だからと言って、「心霊スポットに行ってはいけない」なんてヤボったい事を言うつもりはない。諸事情により、私のサイトにおいては心霊スポットに行く事を推奨してはいないのだが、かといってその行為を禁止している訳でもない。

私も、以前は散々出向いたことだし、先にも書いたとおり心霊スポット巡りは「一風変わった日本の文化」と解釈しているし…。

ただ、もし心霊スポットに出向くことがあったなら、ホンの少しだけで良いから感じ取って欲しい、「そこには悲しい歴史が眠っている」と言う事実を。そして心霊スポットに出向いて、もし幽霊が寂しい表情で現れたのなら、怖がり騒ぐ前に少しだけ思い出して欲しい、「それだけの理由があるからこそ悲しい顔をして現れる」という事を。そして改めて理解してほしい、「心霊スポットの情報、恐怖体験談、古来から伝わる怪談話、その全てが“人の死”から始まる霊と密接に関わる」という動かぬ現実を…。

心霊スポットとは、結局のところ“現世と過去とを繋げる空間”なのだと思う。
その空間を、今までとは違う角度で見つめ感じてみると、また違った表情を覗かせてくる気がしてくるのも、強ち勘違いでもないと、長年のサイト運営を経思うのである。そてしもし、「あの心霊スポットは実は“ガセ”だった」なんて事実が後々に発覚した時には…

「いいじゃないですか。そんな悲しい過去なんて無ければ無いで、それが一番幸せな事じゃないですか!」

そう、そんな悲しい歴史なんて、嘘であったほうが良に決まっているのである。
そして私の弟に起きた事実と、私の歴史に刻まれた「弟との死別」も、嘘であって欲しいと願うばかりである…。

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