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コラム2:久々の道了堂取材で想う… |
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■コラム2 「久々の道了堂取材で想う…」 私が以前に、この「道了堂」に訪れたのは平成13年(2001年)のころであった。その時の現地の姿は、私が感じたところ「悲しみ」が全体的に渦巻いていたように感じた。 時を経て、再び現地に訪れる機会を得た。平成18年度版「怨念地図」の制作にあたり、編集サイドから「現地を取材してほしい」との依頼を受けたからだ。5年ぶりの現地入りということになり、懐かしさを覚えつつも、あの「悲しみ」を感じるのかと思うと、やや憂鬱な感情も多少なりとも入り乱れる、複雑な心境での取材となった。 現地に着くか着かないか、そんな頃より、私の体調に変化が起きた。それは“胃痛”だ。このような取材においては、意外と“つき物”的な体調変化なのだが、緊張感によるものなのか、それとも霊的な要素のためなのか。その辺の判断は、個人的にはしづらい部分なのだが、にしても先ほどまでは何ともなかっただけに、それなりに気になる要素ではあった。 いざ現地に着き、久々に「道了堂」を見て廻って驚いたのは、破壊行為が行われていたことだ。石碑や地蔵尊が破壊され、その行為を警告するかのように柵が張られていたのであった。 そんな現実に晒された現地は、以前の取材に感じた雰囲気とは違う空気に包まれていたように感じた。 この地が怒っている… 心の中で、思わずこう感じ取ってしまった。霊的な確信があって感じたわけではない。しかし、何となくそう感じられてしかたないのだ。 5年という月日を経て、「悲しみ」に満ちた現地は「怒り」に変わってしまったような気がしてならない。 それは、私が以前に訪れた以降より繰り返された破壊行為に対するものなのかは、本当の意味では分からない。しかし、現地を安易に紹介している私に対して“胃痛”というかたちで私に向けられていたのかと、ついつい解釈してしまった…。 少々大袈裟になるが、無残にも殺されてしまった被害者のことを、そして被害者の老婆の気持ちを忘れさせてはいけないと思い、私は現地のレポートを書き路地裏に公開したつもりだ。しかしそれが伝わらず、私の思いとは違う方へ向かってしまったのなら…被害者が願わぬ方向にいってしまっていたのなら、己の力量不足に情けなさを感じる。そしてなにより、被害者をまえに深く頭を下げたいと強く願う…。 「道了堂跡」は、いま思えば私のレポートでのスタイルの“原点”になったといえなくもない。 事前に現地での噂はもとより、過去の事件を頭に叩き込み、その上で現地入りする。ある程度の撮影を終え、跡地の右横に設置されたベンチに座り、何気なく目の前のお堂の跡を眺めていた。そこで実際に起きた事件を思い出し、それは間違いなく目の前に広がる空間で起きたと言う事実。そして、そんな悲しい事件でさえも、何事もなかったように時間は過ぎ“今”を刻んでいること。現地を流れる冬の空っ風。それに舞う枯葉の音…。 その全てをベンチに座りながら眺め感じたときに、心の奥底から込み上げてきた“切なさ”と、それをカタチにせねばと強く感じたことを、今回の取材で改めて思い出した。 怪談として有名な「累ヶ淵」は、数々の作品でも私が特に好きなものである。 好む理由は数々あるが、なにより生きている人と、あの世の人との意思の疎通、心の疎通を随所で見ることができるからだ。 累(かさね)が殺害される遥か昔に、川に投げ込まれ死んでいった「助(すけ)」。彼が祐天の手により成仏する際、菊に取り付いた助の霊が語った 「これで成仏できると思うと嬉しくて声が出なかった」 という言葉に、祐天は袖を濡らし、それを聞いた村人は誰もが涙したという。 そして時代的には何ら接することはない私も、それを読み当時の人々と同じ気持ちになった。 私は、今の時代に知られる心霊スポットも(全てとは言わないが)、この累ヶ淵のような“心の疎通”があって良いと考えている。 無残に殺された霊に対し、ただ「怖い」だけでは余りにも切な過ぎると感じている。私は、この先も“切なさ”を感じながら、悲しみや苦しみの果てに死んでいった故人に手をあわせて行きたいと思う。 「あまり良い行為ではない」 と、誰にいわれようと、その果てに霊に憑かれ殺されようとも、この「道了堂跡」から始まり現在まで続けてきたスタイルを、この先も貫きながら書いていこうと思う。 助の霊が語り、それを時が過ぎた現代に私が読み、そして感じたように、この先に私が書いたものを、誰か1人でも良いから感じてくれることを信じながら…。 ・平成18年度版怨念地図「道了堂」原稿作成時に書いた余談より |
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