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心霊スポット探索レポート
世界無名戦士の墓
所在地:埼玉県入間郡越生町
取材日:2004年4月4日
公開日:2008年9月某日

■現地入りしたのは平成16年の4月。書籍がらみの取材という事情により、ひと気のない時間帯と明るい現地の姿が必要になり、早朝の時間帯においての取材となった。

 小雨の降るなか、東京にある自宅を出たのは、記憶が正しければ午前4時であっただろうか。取材条件としてはイマイチであったことに悩みつつも、天候が回復してくれることを祈りながら車を走らせたのを思い出す。

 実はこの「世界無名戦士の墓」は、神流湖の取材を終えた後に一度訪れている。しかし、現地を訪れる人の数があまりにも多く、その様を紙面に掲載するのも、題材として違和感を感じるし、なにより現地の雰囲気を“より”感じるには、個人的には人の姿が無い方が断然やり易い。そういった事により、改めて早朝の時間帯を狙って現地入りしたのが、裏事情といえば裏事情といえる。

 経緯はどうあれ、このような場所に早朝に訪れる私は、客観的に考えてみれば実に変わり者の中年男だと改めて感じてしまう…。


■振り続けていた小雨も、現地に到着した頃には止んでいた。簡単に神に見放されてしまう私でも、時には祈りも受け入れてくれるもんだと思ったかどうかは忘れたが、どちらにしても「ホッ」とひと安心しながらの現地入りであったのは間違いのない事だ。

 本来ならば、目的物が建てられている手前の階段まで車で行き、そこから撮影を開始すれば効率が良い取材ができる。しかし、道中を歩きながら観察し、また撮影するのを好みとする私は、あえて車を麓の適当な場所に停め、そこから歩きながらの現地取材を行った。年寄りには堪えることなのであはるが。

 「世界無名戦士の墓」が建てられているその山肌には、季節柄か桜の木には美しい花が咲き誇り、実に美しい姿であったのが第一印象だ。山のカラーリングの基本である緑のなかに、圧倒的に違う色彩である桜色は、いつの時代に見ても、つい見とれてしまう。

 しかし、このページは決して桜の美しさを伝えるために作っている訳ではないので、その辺に関しては手短に済ますことにしよう。

 桜に見とれつつ登っていく道中には墓地の姿が見えてくる。桜の美しさに意識が奪われていただけに、少々意表をつかれ「ドキッ」としたのは紛れもない事実だ。最も、事前の“下調べ”において、目的地付近にお寺の存在は確認していたので、墓地の存在は想定していたのだが…まあ要するに“虚を突かれた”といったところだ。早朝とはいえ明るい時間帯であったから、この程度の驚きで済んだのだろうが、これが深夜の時間帯であれば、その驚き加減も数倍に膨れ上がったことだろう。

 そうこうしているうち、世界無名戦士の墓に続く階段が目の前に姿を現す。なかなか登り甲斐のありそうな段数に、今までの徒歩における疲労が追い打ちし、何とも言えぬ精神的ダメージを受ける。言うならば

「ここまで車で来れば良かったなぁ…」

といったところだろうか。しかし過ぎてしまった事に後悔しても何も始まらないし、何より他の取材を2つも残している身としては、疲れたからといって休憩を入れるほどの余裕はない。そんな心境の基、早々に階段を登り始めたのであった。

 階段の途中には幾つかの慰霊碑が建てられており、徐々に“らしさ”が感じられてくる。このサイトを作り始めて、はたしてどれだけの慰霊碑を見てきただろうか。しかし経験に応じて慣れてしまうなんてことは決してなく、いつになっても慰霊碑を目前にすると、何ともいえぬ独特の心境に陥ってしまう。戦争というものを知らない私が悲しみに更けたところで、故人達に対して何にもならないことなのだろうが、それでもつい複雑な心境となってしまう…。

 そうこうしているうち、足を進めた先に、ここでのメインの撮影ポイントとなる納骨堂が、その姿を見せてきた。

■写真では実に読みづらいので、書かれている内容は下に紹介している。このような情報が現地にて紹介しているのは様々な意味で有難い。何より現行を作る上で参考になるのだが、それ以前に、現地を目の前にしたときの“気持ち”に違いが出てくると個人的には思っている。


■この「世界無名戦士の墓」は、簡単に言えばその名前のとおり戦没者のために建てられたものである。その辺の詳細については、現地にある案内板を見るのが何より参考になると思う。上に掲載した写真がそれなのだが、文字が見づらいので、以下に引用させていただくことにする。


  世界無名戦士の墓  所在地 越生町大字越生

 世界無名戦士の墓は、昭和29年に建てられた慰霊塔であって、太平洋戦争で世界各地に散った戦没者の遺骨が土に埋もれているのを悲しみ、彼我の別なく戦没者を供養するために建立されたもので建立にあたっては越生町を中心に多くの人々の浄財が寄せられた。
 塔の正門は東京を向いて建てられ、晴天には都心の高層ビル群や関東平野などを一望できる展望地となっているため、大観山とも呼ばれている。毎年5月10日、慰霊祭が宗派を超えて行われ、大勢の人々が参拝に訪れている。

 また、この付近から西山国有林、大高取山にかけて「コシダの群落地」があり、これは埼玉県の天然記念物に指定されている。

昭和58年3月

埼玉県


 上記のとおり、戦争という時代の犠牲者を分け隔てることなく供養するために、多くの人々の温かい協力のもとに建てられたのが「世界無名戦士の墓」である。人々の故人に対する優しさを感じずにはいられず、またその発端となる戦争も、また人によって始まっってしまったという矛盾さには、様々な感情が入り乱れ複雑な心境にさせられる。

 この記事を書いているのが、9月9日。先月15日は終戦記念日ということもあり、テレビ等のメディアでは様々な特番が放映されたりしていた。こういった番組を見ていると、たとえ現実を元に作られたドラマといえども、「戦争の犠牲により亡くなられた」という簡単な言葉も、悲しみ・恐怖・怒りなど、より深くイメージすることができる。実際に体験した人からすれば、戦争を経験していない私らの理解を遥かに超えるものだと言われてしまうのかもしれない。それでも、より理解したいと思う切っ掛けにはなってくれると思う。少なくとも私はそうであった。

 戦争を経験をしたことのない私は、また頭の悪い私は、情けないことに頭の中で想像することくらいしかできない。だから、頭の中で自分が徴兵されたことを想像してみた。私の女房、また子供たち愛するものと別れ、いつ死んでもおかしくない戦地に身を投ずことを想像してみた。愛する人々の住む土地から、遥か離れた場所で、弾丸に撃たれ死んでいく我が身を想像してみた。だだっ広い太平洋に、船と共に沈んでいく自分の姿を想像してみた。この身を武器とし、適艦に飛び込んでいく自分の姿を想像してみた。

 そのどれをとっても、根性のない私は、情けないことに「出来ることなら避けて通りたい」と、まず考えてしまう。出来ることならば、今のまま温かいこの生活を続けていたい。

 私はそのように考えてしまうのだが、果たしてこの考え方は特別なものなのだろうか。幸せを求めるのは人としての“権利”であり、これは本能にも働くものではないのだろうか。「お国のために」といった気付け的な言葉で自分を奮い立たせ、心に湧きあがる本能を押し殺し、また未来の平和を掴むために戦地に飛び込み、その夢を抱えて死んでいったのではないだろうか。いや、絶対そうに違いない…。

 そういったものを胸に抱きつつ亡くなっていった人々が、この「世界無名戦士の墓」で供養されているのだと思いながら、それを眺めていると、私の心の中に湧きあがる感情は“悲しみ”に支配されていった。それも複雑な悲しみに…。

 現地での噂に、「行進するような足音が聞こえてくる」といった情報がある。それに対し、私は恐怖よりも「死してもなお戦争を続けているのか」と思うと辛くなってくる。悲しくなってくる。そんなことはもう終わりにして、自由な場所に行きましょうよと伝えたくなる。死をもってさえ、幸せを奪い束縛し続けるのだとしたら、戦争というのは罪深いと、更に思えて仕方ない。

 現地での噂に、「兵隊の姿をした霊が目撃される」と言った情報もある。その兵隊の霊が、この平和な世の中に“なまぬるく”生きている私の姿をみたら、果たしてどう思うのだろうか。きっと、余りの不公平さに怒りを覚えるのだろう。「堕落しやがて」と思いっ切り怒られるのだろう。

 そう考えると、申し訳ない気持ちに支配されると共に、“時代という運命”といった簡素な言葉で片付けてしまうこと自体に罪深きものを感じてしょうがない。「過去の過ちは二度と犯さない」といった言葉の向こう側には、現代に生きる私達の想像を遥かに超えた惨劇があることを知るべきだと思わずにいられない…。

 先人方の悲しき犠牲のもとに成り立つ平和のなかで、我々はどうすれば良いのだろうか。そして私はどうしていけば良いのだろうか。私は、こういったサイトを細々と運営する1人に過ぎない。であるならば、その運営していく過程で得た歴史や感情を、こうして素直に書いていこう…。そんな事を、この「世界無名戦士の墓」の納骨堂等を見ながら考えていた、そんな現地取材であった。

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■ご覧のとおり、取材を行ったのは4月。山肌はすっかり桜色に染まり、この季節特有の色合いをみせていた。少々雨交じりの天候であったのが残念といえば残念。
■現地に向かう道のりは、大まかにはこのような雰囲気であっただろうか。本来ならば、現地まで車で向かった方が効率も良いし疲れもない。しかし、初めて訪れる現地の様々な雰囲気を確かめるべく、あえて歩いて向かうことにした。因みに現地までの道のりは、思いのほか急勾配で距離もあったように感じている。言うならば“歩き甲斐”のある道のりだろうか。
■途中には、ご覧のように墓地が待ち構えている。桜の咲く季節、しかも早朝ということもあってか、何とも清々しい雰囲気ではあるが、夜間に訪れたら少々引いてしまいそうな設定ともいえる。
■上のような狭い道をひたすら上ると、それなりに大きな広場的な場所に到達する。目の前には階段が待ち受けており、その先に「世界無名戦士の墓」の納骨堂がある。
■階段の途中には、大きな慰霊碑が建っている。霊的な現場を取材するようになってから、様々な慰霊碑を目にする機会も増えたが、いつになっても慰霊碑を前にすると複雑な心境にさせられる。
■慰霊碑のほかに「馬魂碑」なるものも建てられていた。当然、亡くなった人々の生活と共に歩み、やがて死んでいった馬の魂を鎮めるために建てられたものなのだろう。
■ここが納骨堂となる。扉は閉められているが、格子の間から中を見ることは可能だ。扉の手前には簡素ながら比較的新しい花などが供えられていた。ご冥福を祈り掌を合わすのが、現地を訪れた我々にとって何より先に行うべき行動だろう。

なお、建物の上部には赤い柵のようなものが見えるが、実は展望台になっており、ここに上ることは可能だ。


■上部で書いた戦争関連の霊のほかに、とある少年がここで自殺したのを境に、霊現象が頻繁に起きるようになったという噂も囁かれている。しかし、この部分に関しては、その詳細のすべてを把握するまでには至っていない。したがって、自殺に至るまでの経緯などを知る機会があった際には、改めて付け加えたいと思う。

 なお、現地案内板において「毎年5月10日、慰霊祭が宗派を超えて行われ、大勢の人々が参拝に訪れている。」となっていたが、この5月10日は私の誕生日でもあったりする。ちょっとした運命を感じた気もしたが、それは間違いなく“考えすぎ”だと思っている。全くの余談だが…。

 余談ついでに、納骨堂の上部は、写真の箇所でも説明しているとおり、ちょっとした展望台となっている。ここより望む景色は、天候さえよければ関東平野を見渡せる美しいものなのだが、当日の天候では、それは叶わなかった。

 その展望台に登ったところで現地の取材をおえることにした。階段を降りはじめ、もう一度振り返り納骨堂を眺めたときに、現地は再び小雨が降り始めた。まだ冷たい4月の雨はとても冷たく、まるで肌に突き刺さるようだった。また、現地の悲しみが私の心を突き刺し、この「世界無名戦士の墓」での独特の空間、雰囲気を、より演出しているように感じ、私の記憶に“より”刻まれていくようであった…。

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