【路地裏】【体験談トップ】【管理者体験談】【読者体験談】【作品投稿】 | |||||
■第三十七話 狐 |
|||||
|
|||||
平成も27年となり、路地裏を運営し続けて、気付けば15年が経過した。ここ近年は1度や2度ほど関東を離れ、例えば東北地方や東海地方の心霊スポットを巡ってきた。また、そんな遠出の旅に向け、いわば“肩慣らし”的にというのも妙なのだが、関東近郊の心霊スポットを、冬の終わりから春にかけて訪れたりもしていた。例えば茨城や千葉といった感じだ。こんな調子で各所を訪れていたのだから、 「2015年の春は群馬か栃木にでも行こうかな」 なんて漠然とでも予定を入れるのは、流れと言えば流れではなかろうか。実際に、その辺の心霊スポットの情報を“おさらい”し、また「こういった風に廻れば効率的かな?」なんて想像していたりもした。 しかし、いざその2015年になってみると、様々な事情により、なかなか心霊スポットの旅へ出向く機会が得られなかったのである。引っ越しやら娘の進学やら何やらといったのが、その事情の大まかな内容なのだが、どちらにしても予定していたものを現実にする事のできない悔しさというか無念さを感じながら、路地裏的には不本意な2015年の春を迎えたのであった…。 それから半年以上経過した10月。新居生活も何とか落ち着き、娘も高校生活も落ち着いた様子となった。そんなタイミングで、メインの仕事がたまたま2日程余裕が出そうな雰囲気となり、 「これは何としても仕事を前倒しして取材旅行せねば!」 と心に決め、そこから仕事を順調に進め、何とか2日間の休みが得られたのである。 そこで、実際に向かうべき都市は、北関東も考えたのだが、やはりもっと遠出をしたいのが本音である。なので、予てより企てていた「宮城県」を中心に、その横にある「山形県」を24時間かけて巡る事にした。いわゆる「弾丸取材」である。北関東も捨て難いのではあるが、それは2016年の宿題としておこう…。 そんな経緯で、2015年10月15日の深夜、宮城県を目指して自動車を走らせたのであった。 宮城県で、まず最初に向かった心霊スポットは、その名は間違いなく全国区である「八木山橋」であった。実は当初「七ヶ宿ダム」を最初に訪れようと計画し、それを起点にスケジュールを組んでいたのだが、ふと 「いや、この七ヶ宿ダムは最後にしよう」 と思いついたのであった。大した理由は当然ながらない。なので、この心境を説明するのは非常に難しいのだが、強いて挙げるのなら「何となく」としか言えない様な、そんな軽い判断であった。 そんな経緯で、記念すべき宮城県初の心霊スポット取材は八木山橋となった。有名処から攻めるのも、在りと言えばありだろう…。とにかく、そんな具合で八木山橋に到着したのは、夜も明けぬ午前4時であった。さすがに、そんな時刻の有名な自殺橋は、強烈な雰囲気がある。 「これは最初に訪れておいて正解かな?」 なんて気を良くしたのだが、実はこの八木山橋から延びる道路は、意外と交通量が多いらしい。この時間でさえ、定期的に車が往来し、せっかくの雰囲気も半減といった部分は否めなかった。 また、この時間帯に写真撮影しても、場所を説明する上での良い写真が期待できないのも正直なろころ。要するに、単に暗い写真しか撮影できず、何が何だか解らない写真が多くなってしまうのが悩みどころなのである。 そんな事から、近年は昼間の取材を主としてきたのだが、それでも 「まぁ橋そのものは写せたのだから」 と心に言い聞かせ、気持ちを切り替え次なる心霊スポットへと向かったのであった…。 …のだが、次に訪れた八木山橋から程近い某目的地は、何と時間制限が設けられおり、訪れた時間には入れないという始末であった。胸を張って入定できる時間まで数時間待つのも選択肢としてあるのだが、その数時間が後々に響くのは明白。泣く泣くそのスポットを諦め、その次の場所に向かったのであった…。 「こういう風に幸先の悪い時って後々に続くんだよな…」 ついついそんな事を考えてしまう。実際に数時間の運転で疲労が溜まりつつあるのは事実。しかし、ここで仮眠なんてとってしまえば、貴重な時間を更に失ってしまう。なので、そんなネガティヴな事は考えない様に努め、向かうべく予定地を、それこそ弾丸的に訪れまくったのであった…。 そんな具合で巡りに巡った宮城県から、いよいよ山形県に入ったのは、午後の1時過ぎであった。山形県で最初に訪れた心霊スポットは、宮城県との県境の「母袋街道」である。ここは、心霊スポットとしての歴史は比較的古いといえる。内容としては 「頭を割られ全身血まみれの男性の霊が出る」 といったもので、それは心霊関係における大御所の故・中岡俊哉氏の著書「恐怖の心霊地図帖(二見書房)」にて見る事が出来る。この書籍は昭和58年発行であるので、少なくともこれを書いている時より32年前の情報であるのは間違いない。また、大御所の情報なので、もっとメジャーであっても良い気もするのだが、路地裏を立ち上げてから今まで、この母袋街道における目立った情報を、正直なところ、あまり目にした事はない。 「何でなんだろう」 そういった疑問が湧いてしまうのも当然だし、また何より、何故か注目してしまう不思議な魅力(魔力?)を、個人的に判じてしまう、私としては非常に気になるスポットであった。なので、当然ながら今回の取材旅の中においてリストアップするのも、個人的には当然な訳であり、そんな経緯から、意識的に山形県初の現場にさせて頂いた。 実際に現地を目にし、ここが何故にメジャーにならないのか、その理由は何となく分かった。というのも、母袋街道という情報では、その範囲が広すぎるという点が、場所を限定できず、何とも取っつきにくいのである。例えば同じ県境である「関山峠」であれば、例えば「関山隧道」という心霊スポットとしては、この上ないスポットが存在するし、情報としては同じ位の歴史でありながら、知名度は段違いに関山峠の方が高い。 そんな事を踏まえつつ現地を色々と調べると、何となく推理できなくもない事実が見えてくる様な気がする。というのも、まずこの母袋街道における霊的情報が公にされたのが、私の資料においては昭和58年、即ち 「1983年」 である。 次に、この母袋街道には、時を経た現在には、ちょうど県境に心霊スポット好きな我々には恰好の「トンネル」がある。「鍋越トンネル」という名称なのだが、これがトンネルの銘板によれば 「1987年」 に竣工となっている。 要するに、霊的情報の4年後に、トンネルが完成したという訳であり、それはトンネル完成と同時に「旧道」が生まれたという事にもなる。 その事は、この宮城・山形取材をする際に事前に知っていた情報で、それを踏まえて私は、何となくなのだが 「これはひょっとして旧道に答えがあるのではないか?」 といった事を漠然と予想していたのであった。範囲の広い母袋街道の中で、この旧道の何処かに何かしらのヒントなり何かがあるのではと予想したのである。 その情報を踏まえた上で、現地に到着した際に、まずは宮城県側から県境の鍋越トンネルを自動車で通過し、そこから右折して旧道に入り、再び宮城県へと目指しつつ、その過程を、まずは動画で残すプランを考えていた。 実際に、母袋街道を宮城県側から鍋越トンネルを通過しつつ 「このトンネルを超えたら右折し旧道へ入って…」 と思っていたら、何とその先で何やら工事をやっており、旧道への侵入が完全に不可能となってしまっていた。その辺は、今後に公開するであろう動画を観て頂ければ判って頂けると思うのだが、その動画で確認できる看板のお知らせによれば、 「冬季通行のための工事」 であるそうだ。 …いや、それはそれで分かるのではあるが、にしても旧道を完全に通行不可にする必要は、果たしてあったのだろうか?個人的には 「そんな必要はないだろうう」 と思ったのだが、私の動画から察するに、どうやら旧道への入り口付近を、重機の“置き場”として利用していた様だ。 …何だかな〜とは思うのだが、何にしても山形県側から旧道に入り、再び宮城県側へと戻る私の当初のプランは、もろくも崩れ去ったという訳だ。 「やはり今回の取材は何かしらのアクシデントが待ち構えている…」 そんな事を、ついつい確信めいた様に思ってしまうのも、こんな事実を目の前にしては致し方ない部分だろう。 何とも思い通りに行かない今回の弾丸取材に苛立ちを感じ、またそれに釣られてなのだろうか、妙な心境になりつつ、仕方なく再び宮城県側に戻り、そこから旧道へと潜入する事にした。 ※その宮城県側の旧道へ戻るまでに、何やらかんやら8分ほどを要してしまったのだが、その一部始終をYouTubeに公開しておこうと思う。恐らく、この体験談を公開した後に公開すると思うのだが、その動画は約12分と非常に長いものとなってしまうのだが、あえてそのまま公開しておく。この体験談を見て興味を感じた人は、ついでにでもご覧になって頂けたらと思う。 その様な経緯で、予定とは正反対の宮城県側から母袋街道の旧道へ潜入した。その旧道の雰囲気はといえば、何というか都内近郊で例えれば旧小峰トンネルへと向かう道中に、何となく似ているだろうか。しかも八王子側ではなく、あきる野市側からの、あの雰囲気である。もっとも“瓜二つ”といった感じではなく、それこそ“何となく”といった、例えて言うなら…といった感じでしかない。 しかも、その道中には「スノーシェッド」と言われる、雪崩から道路を守る防護トンネルの様な設備が2つばかり設けられていた。当然ながら、旧小峰トンネルには、そんな設備はない。その辺からして、 「ああ、やっぱ違うか…」 なんて思ってしまうのであった。と同時に、豪雪地帯ならではのスノーシェッドという、関東南部に住む私には馴染みのない設備うを目の当たりに、改めて 「東北に来てるんだなぁ…」 なんて実感が、改めて込み上げてくるのであった。 そんな実感とは別に、何やら別の「何か」も、次いでというか何というか、感じた様な気がした。それは…(霊的に)嫌な予感がする時の、あの特有の「何か」といえば、こういった体験談を読んでくれる人々には分って頂けるかと思う。とにかく、この真昼間に 「嫌な感覚」 が、私の身を唐突に襲ったのである…。 とはいうものの、それでも時刻は午後1時30分過ぎだ。視界は良好だし、当日の宮城県及び山形県の天候は快晴である。(余談だが、その時の関東の天候は雨天であったそうだ)多少の不安感は感じても、それでも恐怖感を思い切り感じる訳でもない。 そんな心理状況のもと、車を山形県側へと何の躊躇なく進ませる。新道との繋ぎ目には重機が置かれ、そこを通るのは不可能なのは判っていたので、途中でUターンせねばならないのは分かっていた。しかし、そのUターンせねばならない個所は、思いのほか早く訪れてしまった。そこは、旧母袋街道から某牧場へと向かう、この道の唯一の分岐点で、そこから先に延びる旧母袋街道にはバリケードが設けられていたのである。 さすがに、それを退かしてまで進もうとは思えない…。 しかたなく、そのT字路で車を停め、そこからは動画撮影から写真撮影と切り替えて、現地の状況や雰囲気を写真に収める事にした。 「それにしても上手くいかないな…」 そんな事を口にしたのか、はたまた頭で考えたのかは定かではない。とにかく、車中でカメラを慌てて用意し、車から降りて車外を撮影し始めた時だった。 「コーン!」 文字にしてしまえば何とも滑稽だが、こんな感じの泣き声が何処からか聞こえたのであった。 「あぁ狐だな」 と素直に思ったし、実際にそうだったのだろう。今回の取材において、随所で目撃し恐怖していたのが 「熊出没注意」 なのだが、確かにそれもそうなのだが、それ以外に狐がいたって何ら不思議さを感じない、現地はそんな大自然だ。 それでも何か、その「狐」に妙に引っ掛かる「何か」を感じた。当然理由なんてない。理由なんてないのだが、狐の存在を感じた時から、何とも言えない妙な感覚が、その後の取材において常に我が身を支配したのであった。 そんな感覚になったからといって、当然ながら撮影を怠る訳にもいかない。そんな状況での写真があるのだが…その中の1枚を、この体験談の最後にお見せするとしよう。最後に必ず見せるので、どうかもうしばらく辛抱して頂けたらと思う。(といって溜めた所で、そんなに迫力のある写真でもないのだが) とにかく、そんな予定通りにいかない“苛立ち”と、その先に聞こえた狐の泣き声。その泣き声を聞いてからの不安感に襲われながら、その後の取材も何とか進め、時刻は午後8時半を過ぎた頃だろうか。いよいよ今回の弾丸取材のラストとなる「七ヶ宿ダム」に到着したのであった。 現地の雰囲気はといえば…実のところ、あまり印象にないのが本音のところだ。というのも、取材前からも含め、ここまで30時間以上も不眠不休の状況で、精神状況は相当に参っていたのだと思う。この七ヶ宿ダムにおいては、撮影すべき個所の写真撮影は疎かになるし、その他の写真についても何とも“的外れ”な写真ばかりで、個人史においても最悪な取材となってしまったと、今となっては思うばかりの最低の取材であった。記憶に残るのは、現地を正面に見るよりも、その上空を眺め、その頭上に広がる天の川に 「天の川を生まれて初めてみたぁ!!」 と絶叫した事。そしてダムの管理事務所と思わしき施設から車で出てきた人に、私と私の車を「ジロリ」と、完全に不審者と思われたかの様にマジマジと見られたこと。そんな状況下に置かれたら、普段の私ならば、それに耐えられず「アタフタ」とするのだが、この時は睡眠不足や疲労、その他様々なものが要因してか、つい 「ニヤニヤ」 と、それこそ不審者そのものを態度で堂々と示してしまったのを覚えている。そして、その居直り加減に、施設関係者がたまらず微妙な表情をしながら、その場を去って行った事も、ついでながら記憶している…。 あとは、どこか遠くから聞こえる 「コーン!」 といった泣き声だろうか。 いや、実際は、こんな文字の様な明確なコーン!ではなく、もう少し野生めいた泣き声だったのだが、上手く文字で表現できないのが何とも口惜しいし恐縮である。 とにかく、例の狐を思わせる動物の泣き声という訳である…。 そんな、記憶も疎らな今回の取材も終え、岐路に向かったのは午後9時前辺りだろうか。非常に長かった今回の弾丸取材も無事に終え、その事に安堵している自分と、これから数時間を掛けて東京まで戻らねばならないのかと思うと、それこそ気を失いそうになる(要するに即座に寝てしまいそうな)自分がいた。 「いや〜これから東京に帰るのは厳しいよぉ…」 そんな事を当然思うのだが、翌日にはメインの仕事が待ち構えており、ここで帰らない訳にはいかない。なので、当然ながら睡魔を封じ込めつつ、七ヶ宿ダムから「七ヶ宿街道」を進み、その先にある東北自動車道の「国見インター」を目指した。 この道中は、まぁこの道に限らずなのだが、地方では当たり前の「外灯なし信号なし」の道が、この七ヶ宿街道でも例に漏れず延々と続いていた。この信号なしの道中は、ついつい車のスピードを上げてしまいがちだ。普段ならば、私もついアクセルを踏んでしまいそうなのだが、この時はさすがに身の危険を感じたのか、家路を急ぎつつも、肝心のアクセルは、それとは別に遠慮がちであった。 「でもやっぱ早く帰りたいしな〜」 「でもでも何だか事故しそうで嫌だな〜」 そんな双方の考えが、脳裏で葛藤していた様な、そんな帰り道の長い道程の始まりであった。 そんな時であった。前方やや右側から「何か」が飛び出してくるのが見えた。 (ああっ!) 口には出さなかったが、これはもしかしたらヤバいかもしれないと思った。他方、それに気づきながらも、その反応が普段に比べ、異様に遅いと客観的に感じる自分もいた。 要するに、単純に反射神経が異様に遅い訳である。 結果として、その「何か」を轢いてしまう事はなかった。岐路を急ぎつつある自分を封じ、何とか最低限の安全運転を保っていた自分に、我ながら好評価を与えたいと思ってしまう。 因みにその引きそうになった「何か」は 狐 であった。 このシーンは、ドライブレコーダーにて記憶させておいたので、これもYouTubeにて別箇に公開しておくので、ついで的にご覧になってくれればと思う。危なかったけれども轢く事だけは間逃れた動画なのは判って頂けるだろう。 とにかく、予定していた事が上手くいかず苛立ち、他方では何やら妙な予感らしきものに不安を感じ、なおかつ睡眠不足に疲労と、全てにおいてマイナス方向にありながら、それでも最低限の制御を怠らなくて良かったとは、その時点でも思ったし、それは今でも思う事である。いや本当に自己中心的に 「とにかく早く帰るんだ」 的に無茶苦茶に運転しなくて良かったとシミジミ思うのである…。 「その時点でも思ったし、それは今でも思う事である」 と書いたが、実は後々になってから、更に良かったと強く思ったのが本当のところだろうか。というのも、その狐を轢きそうになった後、更に車を数キロ走らせると、右手の闇の中に稲荷系の鳥居の群れが唐突に目に入ってきたのだ。 「な、何だありゃ!」 ついついそんな言葉が出てしまう程に、暗闇の中にインパクトのあり過ぎるその雰囲気にたじときながらも、そこで車を停めて確認する気力もなく、また 「これ以上に嫌な心境に陥る材料を増やしたくない」 という本音もあり、そのまま家路を目指したのであった…。 因みにだが、その鳥居群のある神社は「萬蔵稲荷神社(まんぞういなりじんじゃ)」というそうだ。後日にGoogle Mapで確認し、その名所や正確な場所を知ったのだが、あの深夜の漆黒の中に唐突に表れた鳥居の群れには心底驚いてしまった…。 ・Google Map萬蔵稲荷神社の鳥居群 https://goo.gl/maps/jJE5N5tYZqq その後のドライブは最悪であった。幾度の睡魔に、たまらずサービスエリア等でコーヒーを啜り、そこで仮眠を取ろうか悩みつつも、そんな余裕が無いのは分かっているので再び進み、その先のサービスエリアでコーヒーを啜る…といった事を繰り返した。 また首都高に着いた頃にはコンマの話だが記憶が消えつつも、何とか車を走らせ、今年になって引っ越した新居に辿り着く事が出来た。安堵のあまり、近所で缶ビールを購入し、家族の寝静まった自宅のリビングで、1人で缶ビールを飲み干した時の独特の味に、つい 「うんまっ!!」 と口に出てしまったのと、その直後の異常なまでの睡魔に、その場で寝入ってしまったが、今回の取材の様々な意味での過酷さを物語っていたと、まことに勝手ではあるのだが思うのである…。 そんな過酷な取材を終えた翌日は、通例であれば寝坊してしまうのが私である。実は寝坊しても大丈夫なスケジュールを、狡猾にも事前に組んでおり、実は午前10時辺りから仕事を始める予定であった。でなきゃ、あんな弾丸取材をしたりもしない…。 しかし、実際に翌日に起きたのは、何故か早朝5時。その後、いくら寝ようとしても寝られない…。 しかたなく、リビングのテーブルにあった、飲みっぱなしのビールの缶と、そのつまみとして買った枝豆を捨てた。次に、昨日の写真および動画の整理をしようとPCを立ち上げ、デジカメからメディアを抜き取りPCへとセットする。この辺りは取材後に行う“恒例行事”だ。違いは予想だにしない早朝という事だけだ。 いつもの通り、動画と画像を振り分け、ついでにドライブレコーダーのメディアも車から取り出す。前述の狐の動画や母袋街道の動画は、ここから取り出した。 また、それらから、各心霊スポットへとフォルダ分けするのも恒例行事だ。これを事前にしておくと、後々になって有利に働く。 「あれ?これって何処の心霊スポット?」 といった事態を防ぐという訳だ。 そういった事を一通り終えた所で、再び睡魔が待ち構えていると踏んでいたのだが…その睡魔はやってこない。なので、次にそれぞれのデータに、取りあえずでも目を通しておこうと思った。これも、余力があれば行う作業なのだが…まさかこんな弾丸取材の後の早朝に行うとは思ってはいなかった。 しかし、眠くないのなら、やっておくべきだ。 なんて事を思ったかどうかは微妙だが、とにかく新たな睡魔に期待しつつ、昨日の写真データを眺める事にした。 気になるスポットは、何と言っても母袋街道だ。前々より注目しながら、それがメジャーになり得ない不思議さ。それでも惹かれてしまう“何か”を感じ、思わず 「何か写ってるんじゃないかな〜」 といった邪な考えが芽生えてしまったのは、事実といえば事実だろう…。 結果として、母袋街道の山形県側の写真は、残念ながら撮影する事が出来なかった。なぜなら、これは地図を見て分かったのだが、あの分岐点以降のバリケードの先が山形県であったので、そこでUターンという選択をしてしまった私には、どうやら山形県側には縁がなかったという訳である。 非常に残念なのではあるが、過ぎてしまったものはどうしようもない。まぁ実際には、この時点で、そんなに後悔していた訳でもなく 「ま、これもまた運命の導くところ」 なんて気楽に思っていたのが正直なところだ。 そんな心境でありつつ、他方で「何か写ってるんじゃね」的な考えの中、写真を数枚見てみると、 「ありゃ?」 と思う写真が1枚だけ見つかった。 それは例の「スノーシェッド」の手前で写したものなのだが、その内部の暗闇に、何やら青白い“モノ”が確認出来なくもない。 「何か妙だぞ」 そう思いながらも、それがハッキリと確認出来る訳でもない。そこで、その写真を単純な調整で、その部分を分かり易く明るさ調整してみる事にした。 その写真が、先に「必ず見せる」と明言した写真なのである。 その写真に写る物体は、それこそ明確に「人の霊だ」と明言出来る様な素晴らしい心霊写真とは程遠いのは間違いない。見る人間によっては「全然怖くない」というかもしれない。しかし、それにしても、あくまで個人的な意見なのだが、妙に気になってしまうし、また異様なモノも感じてしまう。 たまらず起きてきた女房に、何も語らずその写真を見せてみた。すると、この様な意見が帰ってきた。 「何だか良く分からないね〜…何だか動物っぽくない?」 この意見を聞いた瞬間、思わず背中に冷たいものを感じた。それこそ 「ゾクッ!」 といった感じだ。 これって狐なんじゃないのか? 実際は狐とは似ても似つかないのではあるが、あくまで個人的な思いではあるのだが、ついそう思えてしまった。そして、昨晩に体験した様々な体験が、実はこの写真に象徴されているのではないかと、ついつい想像してしまうのであった。 その直後、あの轢きそうになってしまった狐の事が、徐に脳裏に横切り 「もしあの時、運悪く轢いてしまっていたら、どうなっていたのだろう」 なんて思うのであった。 轢いてしまった運命の後、その後にあの稲荷系神社の鳥居群を目撃した時の私の運命は、一体どの様なものとなっていたのだろうか…。 人生に“2択”の双方を見る事は出来ない。なので、轢いてしまった自分を知る事は、これから先の人生で知る事は完全に不可能なのは理解している。しかし、あの時に「とにかく早く帰りたい」という欲望を、出来うる限り堪えて良かったと、この写真を見た時に、どういう訳か思ったのであった…。
母袋街道における霊的な情報は「頭を割られ全身血まみれの男性の霊が出る」とは先にも書いた。それと今回の写真とは、それこそ全く違う。しかし、時代の流れと共に様々な状況が変化していくのは、霊に限らず当たり前の事である。時の流れにつれ、新たに出現した動物霊なのかもしれないし、実は私が勝手に狐と思い込んでいるだけで、この写真に写り込んでいるものが「全身血まみれの男性」そのものの、時を経た現在の姿なのかもしれない。 その明確な答えは、残念ながら私には導き出す事は出来ない。想像する事くらいは可能なのだが、そんな当てにならない想像を、この体験談の最後に記すのは避けておこうと思う。 因みに、その「頭を割られ全身血まみれの男性の霊」を、30年以上前に目撃した人物は、故・中岡氏の著書によれば「死にたい」または「殺される」と口走っていたそうだ。私は、そんな極端な事を口にすることは“今のところ”ないのだが、家を購入して住宅ローンを組んだ今、 「病気になってダラダラ生きるより、スパッと逝った方が結果的に良いんだよね〜」 なんて事を、本心かどうかは別として女房に話す様になった。今後の私の人生に、路地裏の管理者として客観的に注目してみる事としよう。 ただ、そんな事を口走り、困惑する女房には申し訳ないと思うばかりなのである…。 |
|||||
【路地裏】【体験談トップ】【管理者体験談】【読者体験談】【作品投稿】 |