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■ 「小机城址供養碑」の横には案内板が立てられており、そこには小机城の由来≠ニ題し、小机城の歴史が書かれていました。 一応写真にも収めたのですが、かなりの圧縮の末、何とも見づらくなってしまったので、その文章を、ここに記載しておきます。 因みに撮影した画像の関係上、とてもみづらい漢字が若干あり、微妙に間違っている箇所が存在する可能性もあります。 |
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■小机城の由来 大田道観が上杉定正の主文により小机城を攻め落城。 その後植えすぎ氏は追われ小机城は北条の勢力圏に入る。 大永四年(1524年)北条早雲の忠臣笠原越前守信為は弘治三年(1557年)7月7日、小田原に於いて世を去る。 二代能登趣向守康勝子無きための松田尾張守村秀の息子、新六朗政喜を養子に迎えたのが、天文二十一年(1552年)頃、三代目平左衛門昭重は伊豆戸倉で戦のて昭重は討死した。 二十八天正十八年才(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏歿落し、小机城は廃城となる。 四代目弥次平衛重政(重名虎千代)は天正十九年(1591年)北条氏歿落後、徳川家の臣となり二百石を賜り来地武蔵の国都郡台村に住ず。 城主は信為が亡父能登守信隆の追善のため建並した。 校舎曹調早雲松院ここに城主信為一族の墓が並んでいる。 今より四百五十年余り前である。栄古盛衣のならいの如く此の地に、つわもの達の活躍の跡を残している。 ・小机城址供養塔横の案内板より引用 |
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■上の説明が書かれ案内板がコレ。 「写真で撮影したから安心」 と思っていたのですが、いざPCで見てみると意外と読みづらくて焦りました。 |
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■上の小机城の由来≠見てまず思うことは、小机城の完成日が記載されていなく、いきなり落城するところから始まっています。 と言うのも、この小机城が築かれた明確な年号は、実は分かっておりません。 諸説というか仮説と言うか…とにかく様々な説は存在するようなのですが、1400年代の中頃、上の由来にも登場する上杉氏が築城したという説が一般に言われているらしいです。 ■だんだんと難しい話となってきました。 これ以上の事を聞かれてしまうと、非常に怪しい雰囲気ですので(ようは勉強足らず)さっそく写真の紹介に移るコトにしましょう。 |
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■その供養塔を過ぎると、 右横には畑があり、何とものどかな風景です。 |
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■その畑の奥の方を見てみると、 なにやら地面が盛り上がった箇所があります。 木々に囲まれた小高い丘と言うのか… いや、こぶ≠ニ言った方が正しいのか… とにかく、そこへ行って見ましょう。 |
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■案内の為の杭で確認すれば、 この付近が「富士仙元」であるらしいです。 この写真で言えば、左に進むと 「根古屋」であり、この小机城址の 一般的な入り口であります。 |
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■この付近は、椅子なども一応設置されており、公園といえば公園に見えなくもありません。 人の姿は全くありませんでしたが。 でも緑がとても多く、なかなか良いトコロですよ。 春や秋の晴天の日に訪れると、意外と気持ちよいと思います。 |
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■例のこぶ≠フ袂には、その上に登れる粗末な道が作られていました。 またその道の横には、何かしらの石碑が無造作に置かれていました。 かつてはキチンと立てられていたであろうに… と言う事でさっそくこぶ≠フ上を目指して見ましょう。 |
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■と言う事で今回はこの辺で。 次回は当然のように、この続きからです。 次へつづく |
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