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■さてさて、ようやく城址の中心と言える本丸跡≠ノ到着しました。 地図で確認すると、移動距離も大したモノに感じませんが、実際には高低さ≠燻闢`ってか、今時点で疲労感はかなりなモノでした。 |
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■その本丸跡は、現在はひろば≠ニして整備されており、周囲にはベンチ等も設置されていたと思います。 お弁当を持参して、城址見物しながらお弁当を食べるのも、これまたオツなものかな…なんて思いました。 この小机城址≠ヘ、周辺の小学校か何かの遠足の地として使われていないのかな? 城址としての保存状況は良好と言え、手軽に歴史を感じられる絶好のスポットと思うのですが…如何でしょう? また大人の楽しみ≠ニしてならば、散策は当然の事として、 「お花見」 なんてモノも宜しいかと思われます。 しかしながら、夜は基本的に入場出来ませんので、「夜桜を眺めつつの一杯」は出来ませんが。 城跡での花見は、一度は味わってみたいモノです。 |
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■地図で言えばこの辺です。 そこそこ広い広場です。子供達が野球の練習が出来る程度の広さです。 |
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■上では一般的な事を書きましたが、この小机城址は、その歴史の中で2度ほど落城しています。 1度目は1400年後半で、この時は城の守りも堅く、攻め落とすのに2ヶ月ほどの時間を要したと言われています。 つまり2ヶ月間という長い間、戦が展開された場という事になります。 実際に、どのような攻め方をしたのかは私には分かりませんが、交戦の続くなかで、それ相当の犠牲は当然あったものだと思います。 その2ヶ月間にも及ぶ戦の後、最終的に小机城は落城し、しばしの間廃城となります。 しかし1500年に入り、北条氏一族の領有となった小机城は、南武蔵の拠点として改修され、再び歴史の場に登場します。 しかし北条一族の滅亡に伴い、この時の城主であった笠原弥次平衛重政が徳川家康の家臣となり、それに伴いこの小机城は再び廃城となり、歴史の中から姿を消す事となりました。 私的な意見なので恐縮なのですが、もしこの地に霊の存在があるのなら、この1回目の攻めの時に亡くなられた方々ではないかな…なんて思います。 もちろん霊視などを行った訳ではなく、私の安易な想像での話なのですが。 ただ2回目の廃城は、単に活躍の場を移し、それに伴った廃城なので、特に大地が血に染まった≠ネんて事は無かったのではないかと思います…多分。 この辺ちょっと自信がなくなってきました。(大汗) それに比べ、1度目の落城は、先程も書きましたとおり2ヶ月間にも及ぶ交戦の後であり、その戦には多くの犠牲があったと思われ、少なからず無念はあると思われまして…そういったことを踏まえますと、可能性≠ニしては、やはり1478年の落城時の犠牲者のものではないかと思えてきます。 緑の散策や、遠足、花見に打って付けなこの小机城址ですが、そういった歴史を踏まえ、例えば花見が始まる前に心の中で合掌すると、遥か遠い昔の無念も、ホンの少しはその無念も晴れるかもしれませんね? ■と言う事で、以下より現地の写真を紹介して行きましょう。 |
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■本丸入り口の門を撮影。 見事なまでの太陽光線で、画像がぼやぼや≠ネ状況となっております。 決して心霊写真ではありません。 |
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■ひろば≠ニ言う事場がお似合いな現在の本丸跡。 この日は人っ子一人いませんでしたが、時に野球の練習場と化す時もあるらしいです。 |
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■今回のレポートで活躍中の地図はコレ。(笑) 案内板が多いのも、この小机城址の特徴と言えば特徴ですかね。 空掘≠竍櫓≠フ説明が書かれた案内板は有難い存在かもしれません。 |
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■一旦本丸跡を離れて、今度は空掘を歩いてみました。 竹が空掘に群生しており、独得の空間を作り出しております。 |
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■こんな感じで、圧倒的に竹の数が多いです。 滝山城址では杉の木が目立ちましたが、ここは竹≠ナすね。見事なまでの竹林です。 因みに八王子城址では…霧≠ェ目立ちまして…。 |
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■そんなこんなでまだまだ続きます。 次へつづく |
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